「倫理感」臓器売買の報道で思うこと、それから辟易したこと。
2011年06月27日 (月) | 編集 |
己の信念に従い行動すること、これは自我であり個性である。
円満な集団社会において、自我や個性は一定の規律の下で保証される、規律は倫理である。
早い話、世間様あっての吾輩なのである

・・生体間の臓器移植には、規律としての臓器移植法がある。
倫理に背く臓器売買を戒めるためだが、生体移植については倫理自体がまだ未成熟である。

臓器移植を待つ患者は多く、これに対して臓器提供者は極めて少ない。
数年前には、“病気腎移植”を長年続けてきた医師の行為が、倫理上問題になった。
昨日は、腎臓病を患う医師が、養子縁組した暴力団関係者と臓器売買を計画して逮捕された。
中国では、臓器売買が後を絶たず、iPad欲しさに自らの腎臓を売る少年さえいるという。

少し前、フジの月九で臓器移植をテーマにした“流れ星”というドラマがあった。
肝臓病を患う妹のために、兄貴が行きずりの女性と臓器売買を前提とした契約結婚をする。
法律上は許されざる行為だが、金銭の授受がなく、愛情が本物に変われば、どうなのか。
臓器移植の倫理を、我々はよくよく考えなければならない。

話は変わって、最近の永田町。
倫理観がおよそ世間とはかけ離れた政争が続き、もはや国民の多くが辟易している。
己が大事で仕方が無い殿様の下で、哀しいかな円満な社会など望むべくもない。
“燃え尽きるまでやらせてくれ”とはよく言ったもの。
被災地で過ごす方々に今年の夏は暑かろう、燃えるなら何処か他所に行って存分に。